ゴールデンボンバーの『寄り添い』
私がゴールデンボンバーのファンをやっていて一番思うことは、「こんなにも私たちに寄り添ってくれるバンドはいないだろう」ということ。
最近だと、延期されたライブが開催される予定だった日に、その開催地についての思い出をメンバー全員で話す動画を上げてくれたり、週一でニコ生配信をしてくれたり、さらには安眠を促してくれるような動画を上げてくれたりと、その寄り添いは我々の生活にまで及んでいます。
そんなユニークな行動による寄り添いが目立ちがちですが、ゴールデンボンバーがファンに、世間に寄り添っていることを証明する一番のものは、その”楽曲”です。
具体的な例を挙げると、2018年にリリースされたアルバム「キラーチューンしかねえよ」に収録された「ドンマイ」が分かりやすいのではないでしょうか。
私はこのアルバム「キラーチューンしかねえよ」の頃から鬼龍院翔は『寄り添うこと』について意識し始め、この「ドンマイ」という楽曲がうまれたと思っていました。ですが、昔の曲を聴き返すうちに鬼龍院翔はずっと昔から『寄り添い』をしてくれていると気付きました。
私はこの「ドンマイ」という楽曲は、鬼龍院翔のアーティストとしての軸、魂となる『寄り添い』の部分をそのまま言葉にし、曲にしたものだと考えます。
「僕も同じだよ」
「今日君も泣いていたの?」
「僕もそう思うよ」
「生きてゆく日々の中で 必ず訪れる
理不尽な悪意に触れて 心痛むとき
包み込むような歌があれば」
また、2014年にリリースされた「101回目の呪い」もこの類の曲だと考えます。
特にサビ部分の歌詞が分かりやすいです。
「生きられぬ弱さは僕に頼ればいい
いつまでも耳元で歌うよ
まるで「呪い」でいい
君の僕でいい
降り注ぐその痛み 身代われ」
「君の僕」の箇所でしもべを”僕”と表現したのは、意味通り雑用に扱われるもの、日常で消費される曲、みたいなことを表すのと、英語でいう”I”の意味で捉えて君(you)=僕(I)ということを表したかったからではないか、と推測します。「身代われ」という歌詞からも君(you)=僕(I)の関係を想像することができます。
君が日々の生活の中で痛みを感じることがあれば、僕の痛みをのせた曲を聴くことで少しでも傷を癒してほしい。君の痛みが僕の痛みに共感することで、君の痛みを晴らしてほしい。(これが「身代わり」ですね)そういうふうに僕の曲を使ってくれたら…というメッセージを歌った、ある種鬼龍院さんの決意のような曲だと捉えました。それは今までも、そしてこれからもぶれることが無いくらいに強いものだと感じます。
このように考えると、「101回目の呪い」から分かることはやはり、『寄り添い』が鬼龍院翔の楽曲において大きな軸になっているということです。
ゴールデンボンバーの曲は、冴えない自分や失恋、殺意、妬み、嫉みなど大半は誰もが日常で感じうること、経験しうることをうたったものです。(例外はたくさんありますが…)
「ドンマイ」や「101回目の呪い」の様に直接的に言葉にはしませんが、自身が感じたこと、経験したことを通してずっと「僕も同じだよ」「その痛み 身代われ」と歌ってきてくれていたのだ。今も昔も変わらず、ずっと寄り添ってくれていたのだと思うのです。
ゴールデンボンバーは人を引っ張るでもなく、後ろから押すでもなく、ただ横にいてくれるアーティストなのだと思います。
曲を経由して一緒に悲しんだり、ライブで一緒に楽しんだり。
そういうことをこれからもしたいと願うし、願いはきっと叶います。
それは彼らがゴールデンボンバーだからです。
ああ…ゴールデンボンバー、一生居てくれ…と思わずにはいられない…
どう考えても愛してしまう…
ありがとう…
という気持ちが溢れてきたのでいきなりこんな記事を書きました。
言いたいことは以上です…
読んでいただきありがとうございました。
次こそは上半期ベストを書きます。
上半期下半期、大好きなので楽しみです。